
人生には理由がある
vol.23
瀬戸内寂聴元秘書/瀬尾まなほさん
瀬尾まなほ/瀬戸内寂聴元秘書
人生を変えた
寂聴さんとの出会いと別れ
瀬戸内寂聴元秘書/瀬尾まなほさん
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就職活動で苦戦する中、運命を変えた寂聴さんとの出会い

海外に憧れ、高校時代は1年間カナダに留学。卒業後は京都の外国語大学に進学するものの就職活動で大きな壁にぶつかります。「留学することが夢だったので、帰国してから新たな目標が見つからなくて。将来も、就職して結婚して、専業主婦になるか、そのまま働くかみたいなぼんやりとしたものでしたね」。
そんなとき、お茶屋でアルバイトをしていた友人を通して、新しいスタッフを探していた瀬戸内寂聴さんを紹介してもらうことに。これが瀬尾さんの運命を大きく変える出会いになりました。
「実はその時まで、瀬戸内のことをよく知らなかったんです。でも初対面からとても気さくでやさしくて。面接のときに、その場にあったゴディバのチョコレートを“これ、あなたと食べようと思っていたのよ!”って言ってくれて、帰りには残りをお土産として持たせてくれたんです。今思うとリップサービスだっただけなのかもしれませんが、瀬戸内はサービス精神が旺盛で人を喜ばせるのが本当にうまいんです」。あっという間に心を掴まれた瀬尾さんは、初任給や雇用形態などの条件は二の次にして、「ここで働きたい」と入社を決めました。

二人三脚の始まりと、背中を押してくれた寂聴さんの言葉
寂聴さんは京都・嵯峨野に「曼陀羅山 寂庵」にお堂・事務所・住居を構えておられ、瀬尾さんはそこで事務スタッフとして働き始めました。周りは何年も働いているベテランばかりでしたが、2年が経った頃、全員が退職してしまいました。ここから寂聴さんと瀬尾さん、66歳差の二人三脚での奮闘が始まります。
出張の準備から食事の用意まで、それまではすべてスタッフが行なってきましたが瀬尾さん一人では到底手が回りません。寂聴さんも自身でやらなければならないことが増えました。当時、寂聴さんは90歳。突然の変化に戸惑いもあったはずですが、さすがは寂聴さん。その変化すらも楽しみ、周りからは「瀬戸内さん若くなったよね」「最近、すごく楽しそう」と言われるように。瀬尾さんも最初は不安だらけでしたが、寂聴さんのそんな様子を見て、「腹を括りましたね」と微笑みます。

そうはいっても当時、瀬尾さんは弱冠25歳。社会人としてはまだまだ未熟な年頃です。常に気を張り、「ピリピリしていた」と振り返ります。出張の際、手配していたはずの車椅子がこないと、「なんで?ちゃんとしたのに!」と感情的になってしまったり、間違っていることは間違っていると言わなければ気がすまず、時には寂聴さんに食ってかかったりすることも。そんな瀬尾さんを寂聴さんはやさしく諭しました。「まなほ、この世は黒と白だけでできているのではなくて、グレーだってあるんだよ」。それでも当時は納得がいかず、寂聴さんの言葉の意味、器の大きさ、人間性が理解できるようになったのは30代になってやっと、と話します。また、自分に自信が持てず、「私なんか」という言葉を使ってしまいがちだった瀬尾さんに寂聴さんは、「“私なんか”と言っては、この世で一人しかいない自分に失礼。そんなこと絶対に言ってはだめ」と叱り、瀬尾さんは二度とその言葉を口にすることは無くなりました。
「瀬戸内は第二次世界大戦も、戦後の女性の社会進出が難しい時代も経験しています。今の若者は自由も未来も、可能性もあるのになぜ失敗を恐れたり、自信を持てないのかと、私を見てもどかしかったんでしょうね。“チャンスはいつもあるわけではないからチャンスが来たらその波に必ず乗りなさい”と言われたことも印象に残っています」。

寂聴さんへの手紙をきっかけに、ベストセラー作家に
子どもの頃から特別何かに秀でていたわけでもなく、就職活動でもうまくいかず、どうしても自分に自信が持てなかった瀬尾さんを支えたのは、「よく気が利くね」「まなほは頭がいいね」などといった寂聴さんの言葉。「小さなことでも毎日ほめてくれるんです。そうすると私も自分のことを好きになるし、もっと瀬戸内の役に立ちたいって思うようになるんですよね。私って自分のためではなくて、誰かのためなら力を出せるし、好きな人のためならすごく頑張れるって気づいたんです。しかも瀬戸内はどんなときも“まなほなら大丈夫。できるよ”って背中を押してくれて、最強の味方でいてくれて。それがあったから、なんでも挑戦できるようになりました」。
お互いに支え合い、関係を深めていったお二人でしたが、年齢差や立場の違いから意思疎通がうまくいかないこともありました。そんなことから、瀬尾さんは思いを伝えるために寂聴さんに手紙を書くようになりました。面と向かって話すと感情的になって、きちんと思いが伝わらないかもしれない。でも、寂聴さんはプロの物書き。手紙ならそのままの気持ちが伝わるんじゃないか。手紙に対して寂聴さんからは特に反応はありませんでしたが、ある日、“まなほの文章はとても素直でいいのよ”と編集者に話したことから、本の出版オファーが瀬尾さんに舞い込みます。「本を書くなんて絶対無理!って最初は言っていたのですが、この時も、“まなほならできるよ、チャンスの波には乗らなきゃ”って。今の私があるのは、瀬戸内がいつもそうやって私を信じてくれたからなんです」。瀬尾さんの初のエッセイ本「おちゃめに100歳!寂聴さん」(光文社)はベストセラーに。瀬尾さん自身も大きな注目を浴びるようになりました。

逝去から2年。悲しみは箱にしまったまま 一生開けたくない
100歳を間近に控えた2021年の秋、寂聴さんは風邪をこじらせて入院するも、翌月には元気に退院。誰もがなんてことのない出来事だと思っていました。しかし、退院から5日後に「息が苦しい」と再入院すると、入院中に脳梗塞を起こしたのち、容態が急変し、帰らぬ人となりました。
寂聴さんの最後の夜は、いつもは親族がいる病室に偶然二人きりになることができた瀬尾さん。寂聴さんはもう話すことができませんでしたが、瀬尾さんの話に「微笑んだように見えた」と言います。「あの時間があって本当によかった。瀬戸内に笑ってほしい、喜んでもらいたい、瀬戸内のために頑張りたいと思い、20代のほとんどを瀬戸内と過ごして、最期の8年間は私が一番そばにいたと自負しています」。
亡くなった直後は悲しみに浸る間もなくメディア対応や本葬、偲ぶ会の手配など目まぐるしく日々が過ぎて行きました。「悲しみは箱にしまって一生開けないつもりです。開けてしまったら私、何もできなくなっちゃうから。でもこうして取材や講演で瀬戸内の話をすることが私なりの供養の仕方なのかなと思っています」。
寂聴さんとの出会いで人生が変わった瀬尾さん。その教えと生き方を自身の言葉で今後も語り継いでいきます。
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季節によっては口まわりなどが粉をふくほど乾燥してしまうという瀬尾さんのスキンケアはとにかく保湿重視。「化粧水、乳液、美容液、クリームをこれでもかというほど塗りたくるので、ナリスさんのスキンケアはとてもシンプルで、実はちょっと不安でした(笑)。でも使ってみると、さっぱりとしてベタつかないのに満足感があってすごい!と思いました」。Wクレンジングは手に出したクリーム状がなめらかなテクスチャーに変化することに驚いたそう。「肌になじませるとオイルっぽくなって、流した後はさっぱり。これ一本でクレンジングと洗顔が完結するのもいいですね」。
また、ふきとり化粧水を人生で初めて使った感想は「気になっていた鼻のごわつきがなめらかになった気がします」。美顔器などは使ったことがないとのことでスキンクリアピーリングにも挑戦していただきました。「顔を濡らすだけで簡単なのにつるつるになってうれしいです。子どもたちをお風呂に入れたりして夜は忙しいので手軽なのはありがたいです」。
ベースメイクは普段、BBクリームやクッションファンデを使っているそうですが、「BBクリームはふわふわサラサラ肌に仕上がって薄付きだけど時間が経つほど馴染んでいって。ヨレたり、鼻だけテカるわけでもなく、夕方までサラサラが続いたので驚きました」。